帰らないの? ヒノエくんルート・1月
〜ネットトレードの天才?〜
話は、九郎が家出する数ヶ月前、
1月の冬休み明けにまで遡る。
何やら、けたたましい物音が階下から響いて
数秒後、
静寂が戻った。
ヒノエは昨夜遅くまで、
というより、ホンの2時間前まで、3台のパソコンの前に座って
ニューヨークとロンドンのネットトレーディングをしていた。
中東の不安定な政情とアメリカのFRBがどうなるか、
新年早々、臆測が臆測を呼んで
石油関連銘柄を中心に、株価が激しく乱高下し、
「売り目」と「買い目」の見極めが難しかった。
それでもプラス35,000ドルほどにはする事ができた。
今日の東京証券市場はそれを受けて荒れるだろう。
その証拠のように、時差−3時間で開いたウェリントン市場では
証券取引も外国為替証拠金取引(FX)も、かなりの波乱に満ちた開始となっている。
あと1時間ほどで、東京の証券取引が開始される。
荒れた市場は判断ミスが恐い。
一瞬のためらいから、
わずか30分の間に45,000ポンド+127,000ドルの損失を
ロンドンとニューヨークの両方の市場で出してしまったのは、わずか2週間前のことだ。
円に換算した時の金額に愕然とした。
それ以来、ネットトレードにメリットがあると思える分野すべての勉強を始めた。
「あいつはどうして部屋から出てこないのだ?」
と、いくら説明しても理解できない九郎などは、
いつ起きていつ寝るのかすら不規則すぎて分からない、ほぼ引きこもり状態のヒノエを
「不健康」と決めつけて、憤慨していた。
失敗は1度でいい。
それまでの睡眠を中断されて、少々不機嫌度45%であった。
喉の渇きを満たそうと、階下のキッチンに下りてきた。
あいつが座っている。
不機嫌度が65%に上がる。
「おはよう。今、お目覚めですか」
「冗談だろ、27時間前から起きてるよ」
「ヒノエ」
「何だよ」
「あまり無理は……、望美さんが心配してましたよ」
「……」
「これを渡して欲しいと。先程いらして」
と言って、鎌倉駅前の薬局名が印刷された袋を差し出した。
中を見ると、茶色の小瓶が6本入っていた。
「? 何だ?」
「さあ……。現世界で、なんでも疲れた時に飲むのだとか。
『ファイト一発!』と望美さんは叫んで行かれましたが」
「ふぁいといっぱつ? 何だい、それ」
「さあ……」
1本取り出して見る。
たまにTVの広告で見かける、栄養ドリンクというやつだ。
「優しいね、俺の神子姫様は……」
直接ヒノエに渡すことすら、ヒノエの作業を邪魔しては悪いだろうと気遣って、
弁慶にこれをわたす望美の顔を想像して、
唇が微笑む。
クリッと蓋を回して開け、一気に飲み干す。
薬草や漢方薬が、ジュース味に調えられている。
(悪くないね)
瓶のラベルを見る。
効能が書かれている印刷の上に、望美の文字で
『無理するな! ちゃんと睡て 食え!』
と書いてある。
(「睡て」? 「寝て」だろ、神子姫様…)
と思いながらも、和む自分が分かる。
「で、当の『俺の』神子姫様は?」
と、『俺の』にやや力を込めて尋ねる。
「今日から学校ですよ」
「ふ〜ん、そういえば、そんなこと言ってたな」
さっきのけたたましい物音は、望美が慌てて出て行く音、か。
「じゃ、譲も……」
「ええ、そうですよ。
ただし、譲君は朝練があるので、2時間以上前に出られましたけどね」
なるほど、姫君の目覚まし係は、とうの昔にお出かけか。
じゃあ、神子姫様、遅刻決定か?
それでも俺に届け物とは泣ける話じゃん。
喉の渇きも潤った。
それも、そんな状況にもかかわらず届けられた望美からの賜物で。
不機嫌度は−20%。鼻歌の一つもしたくなる気分。
「あんたもどっか、出かけないのか」
「フフ、ちゃんとこれから出かけますから、安心してください」
「素直にそう返されると、かえって不安になるね。
後学のために、何処にいくのか、聞いといてやるよ」
「栄養ドリンクを望美さんから貰った事には少々焼けますがね、
そうまで態度を変える君も可愛いですね」
「何だって」
ああ、こいつと顔を合わせていると、どうも不機嫌度が上がってしまう。
「兄上にも困ったものですね、甘やかし放題で。
ヒノエ、言葉遣いの悪いのも、あなたの個性だとは思いますがね。
言葉遣いは人柄も表します。
どこかで、あなたが誤解されやしないか、僕は心配ですね」
「そりゃあ、ま、どうも、御心配、いただきまして、ありがとう、ございます。
分かったよ。聞かないでおいてやるよ。
そうまでして、話の矛先を変えようってするからには、
どうせ、ろくな所じゃないだろうからね」
「嫌だな、別に隠しだてなんて、しませんよ。
単に、証券会社に今後の相談をしに行くんです」
「藤沢の駅前の?」
「いいえ、今日は横浜に」
「ああ、あんたにやたらと入れあげてる証券レディが担当の」
「ヒノエ……。どうして、そういう情報だけ早いのですか?」
「ふ、語るに落ちてるじゃん。あんたらしくもないね、軍師殿」
「やれやれ、望美さんの栄養ドリンクのお陰か、今の君は無敵状態ですね。
敵いそうもないので、退散します。
君も無理せず、身体を休めてください」
「あんたが出かけたら、鍵をかけて、それからね」
東京証券市場が開く
その途端、ヒノエの顔が緊張する
何だ? これは?
株価が、急降下している
売り株続出
全面的な外国投資家と機関投資家の連動した日本株の全面売り
市場はパニックとなっている
ストップ安続出
どうすることも出来ず、目の前のディスプレーの数字を見詰めるヒノエ
これは……、手が、出せない
ヒノエの所有していた日本企業株の大半は、わずか3時間で半値以下になってしまった。
2週間前のロンドンとニューヨーク、今の東京……
この14日間で、ヒノエは273,000,000円の損失を出した。
わずか5,000,000円から始めたネットトレードは、
300,000,000円ちょっとまでは、アッという間に増えた。
現世界で金を稼ぐのは「チョロい」と思えた
その矢先、
その、ほとんどを失った……
どうあがいても、素人の独学には限界がある。
今以上の株や経済の理屈と、情報分析方法を知らないことには、
もう、どうしようもない。
そこでヒノエは、「大学」という学問機関に目を付けた。
その夜、ヒノエは珍しく真面目な顔で譲に話しかける。
「なあ、譲。株とか証券取引の理屈を学ぶのは、どこがいいんだ?」
「え? 株? 大学の経済学部じゃないのかな」
「ふ〜ん、大学の経済学部……ね…。で、どうやったら、そこに入れる?」
「普通に? シャレとか冗談ではなく?」
「当然じゃん」
「だったら大学入試で合格するしかないだろう」
「大学入試? ふ〜ん……、で、どうやったら合格できる?」
「その大学を受験して、一定以上の点数を取れれば合格するさ」
「じゃあ、その『一定以上の点数』はどうやったら取れる?」
「本気で言ってるのか?」
「勿論」
「だろうな。本気でなかったら、ぶっ飛ばしてるところだ」
「?? 何で?」
「現世界での俺達は、大学入試に合格するための勉強をしに、
高校に行ってるんだからな」
「え! じゃあ、望美も? その『大学』とやらを受けるのかい?」
「え…!? ま、まあ、たぶん」
「だとしたら、ますます『大学』には行かないと、ね」
「お前が?」
「そうだけど、何か」
「大学を受験するには、高校の卒業資格が必要なんだ」
「ああ、そうか。
それもあってなんだ。お前達が『高校』に行ってるのは」
「そうさ」
「分かった。その高校卒業資格は置いておいて、
次に、どうすればいい?」
「その前に、どこの大学に行くんだ?」
「どこの? そんなに『大学』というのはアチコチにあるのか?」
「ま、ピンからキリまでいろいろ、さ」
譲は机の上の、何やら厚い本をヒノエに渡し、
「自分で探せよ」
と言った。
「『蛍雪進学』…? 何だい、この本は?」
「大学案内さ」
「これ…、これ、全部『大学』なのか?」
「ああ、そうだ」
「ヒュ〜、凄いね、お前達の世界は…。
で? オレが行くとしたら?」
「いつ?」
「早ければ早いほどいいね」
「場所的には?」
「ここから近いにこしたことはないね」
「だったら……、国立はセンター試験がもうすぐだけど、
その申し込みはとっくに終わってるし……
私立しか無いよな、もう、この時期じゃあ……
ここから近い私立で、経済に強いっていえば
やっぱり、あそこしか無いよな…」
その日から、ヒノエの「受験勉強」が開始された。
07/11/06 UP