帰らないの? 景時さんルート・7月 U
望の月が明るい
にもかかわらず15日でないことの不思議。
太陽暦という、月の満ち欠けを基準としない暦によって月日が運行する世界。
電話が切れてからすでにもう、数時間が経つのだが
朔は何やら胸騒ぎが収まらず、自室に戻ってからも
七里ヶ浜の波音を聞きながら、
部屋に影を作るほど明るい月を眺めていた。
『やはり……』
朔は意を決して携帯を手にした。
呼び出し音が2回目にならないうちに、相手が出る。
「あ、こんな夜遅くですみません、譲殿。実は先程…」
窓から差し込む月影が、妙に心を波立たせる。
今夜に限って妙に静かで、外を走る車もほとんど無く、波音だけが耳につく。
「明日、あたしのスタッフがそっちに行くから、話を聞いて契約書にサインしなさい」
サインは署名の事だということぐらいは分かる。
スタッフは……?
それよりも件の太木加寿子の言う契約書とは?
考えれば考えるほど分からない。
あれほど悪し様に罵った彼女が
一介の喫茶店のマスターに過ぎない自分と、何の契約を結ぼうというのか……???
『やっぱり……』
景時は意を決して携帯を手にした。
5回目の呼び出し音の途中で、相手が出る。
「景時、どうしました? 珍しいですね、こんな夜遅くに…」
「ごめんね〜〜、今、話してて大丈夫かな〜〜?」
翌日
ランチタイムから午後のお茶に続く慌ただしさが一段落をみせた午後4時過ぎに
そのスタッフが来店した。
太木加寿子のスタッフというからには如何なる百戦錬磨の男性だろうか
いやいや、凄っく頭の切れる、キッとした感じの女性ではないでしょうか
あれこれ想像していた梶原兄妹は、
これから来店していいかと、アポの電話をかけてきたのが
おっとりとして初老と言っても良いような女性であることに
まず意外なものを感じた。
「私、あの先生の趣味として如何にも切れるという女性を想像していました」
「でなければ、美男子系かな〜〜って思ってたんだけどね〜〜」
「ええ、それも考えました。でも…」
「声の感じは50代かな〜〜」
「兄上、その方に直接、年齢を尋ねないでくださいね」
「え〜、しないよ〜。さすがに失礼でしょ〜〜」
「よかった。一応、常識はあるのですね」
「やっだな〜〜。朔、お兄ちゃんのこと、本っ当ぉ〜にどう思ってるのかな〜〜」
「契約って、何の契約なのでしょうね?」
「朔ぅ〜。お兄ちゃんの話、聞いてる?」
「え? ええ、勿論です…あ、いらっしゃったみたいですよ」
店に入ってきたのは、太木加寿子をさらに一回り大きくしたような、中年の女性であった。
声の感じから「初老」と勝手に判断していた梶原兄妹は
最初、この女性と電話の声の主が同一人物とは思えなかった。
居丈高な太木とは正反対に、どこかオドオドした様子で店内を一瞥し、
朔に案内されてカウンターに座ったその女性は、
席に着くなり件の契約書と思しき書類を取り出した。
「こ、これを…」
「あの、その前に、何かお飲みになられませんか?」
「え? いえ……。あ、じゃあ、お水を一杯…」
「はい」
「で、梶原さん」
「はい」
「あ、いえ、お嬢さんではなくて、お兄様に」
「あ、はいは〜い」
「こちらが契約書類となりますので、サインと捺印をお願いします」
「その前に〜、ちょっ〜と見せてもらえますか」
「え?」
「いや〜昨夜、太木先生から電話はあったんですけどね〜。
何の契約かは仰らなかったものでね〜」
「サインと捺印をして頂ければ、それでよろしいのですが」
「だから〜、何の契約かの確認を」
「は、はぁ……。私は、すぐにサインと捺印がいただけると思っていましたもので…」
「でも、内容の確認しないで、後でモメるのって、どっちにとっても嫌でしょ〜」
「それはそうですが……、手短にお願いします」
景時が書類を受け取り、奥に入って行く。
入れ替わるように、朔が水を持ってきた。
「どうぞ」
「あ、どうも…」
「何か、お急ぎなのですか?」
「ええ、すぐに取ってこいという先生のお達しなので」
「それで……。大変ですね」
「え、ええ……。あ! いえ、そんなことは」
「お察しいたします」
「は、はあ……どうも…。あ、あの…」
「はい?」
「お紅茶…いただけますか?」
「はい」
朔はこの上もない嬉しそうな笑顔をふりまいて言った。
「これがメニューです。どれになさいますか?」
朔の笑顔に見つめられ、顔を紅くした女性はメニューを見て、何故か溜息をついた。
「あの、何か?」
「いえ、『豆餅』まであるのですね…」
「ええ、京都の『出町柳』の豆餅です。いかがですか?」
「……い、いえ…。『ダージリン』をアイスでお願いします」
「はい。ミルクとレモンのどちらになさいますか?」
「…レモンで」
「はい、少々お待ち下さい」
「これは…ちょっと」
奥から出てきた景時の声に、女性はピクリと肩が動いた。
「あの…」
「申し訳ないんですけど、これはちょっとサインできません」
「な、何故です?」
「専属契約を太木先生の事務所と結ぶってことですよね」
「私は内容については何も…」
「マネジメント手数料とか出演料はともかく、専属っていうのはね〜〜」
「そう言われましても、私には何も…」
「う〜〜ん、申し訳ないけど、無理……かな〜〜」
「サインを貰って帰らないと、私……」
「ごめんね〜〜。でも、オレもこれでは……、附帯事項の縛りもキツイしね〜〜」
「ダメですか…」
余りにも悲しそうな彼女の姿に、
交渉上手の景時も思わず、情に流されそうになっていた。
朔も、これは仕方ないかもしれないと、柄にもなく思い始めていた。
「あ、あの〜」
「ええ、兄上…」
「ダメですよ」
と言うなり、景時のもった契約書類を取り上げる手が背後から伸びる。
「え!?」
驚いて振り返る梶原兄妹の眼に、にこやかに書類に目を通す弁慶が映った。
「あ、あの…、この方は…?」
「べn」
「景時」
「あ、あはは〜〜」
「初めまして。僕は藤原慶二と申します。」
「藤原慶二…さん…」
弁慶のとびきりの笑顔を目の前にしても、さほど動じることなく
それどころか、ますます悲しそうな表情になって
「なんで、『ダメ』なんでしょうか?」
と、独り言のように呟いた。
「そのような悲しそうな顔をなさらないでください。
ただ、率直に申し上げますと」
「はい……?」
「残念ながら彼、梶原景時は、僕のプロダクションの大事なタレントなのですよ」
「え?」
「え? 兄上…」
「え〜〜〜?? べ」
「いいですか、この契約書を見る限り、
彼は太木先生とのバーターでしか出演できないことになってしまいますね。
その上、この専属料と出演紹介料のパーセントは暴利なんじゃないですか。
もう一度、申し上げますが、梶原景時は我が社の専属タレントです。
ですから、この条件での契約は結ぶことができませんので、
今日のところはお引き取り願えませんか。」
そう珍しくきっぱりと言い切る弁慶に
溜息をつきながらこの女性は、紅茶も飲まずに去っていった。
「弁慶殿」
「はい?」
「弁慶殿らしくない物言いでした。
あれでは、あの方が可哀想ではないでしょうか?」
「そうだね〜、オレもちょっと驚いたよ〜〜」
「あれが、彼女の『手』なのですよ」
「手?」
「ええ。業界では有名な方で」
「そうなのですか!?」
「ええ、太木加寿子という女性がここまでになれた陰には
彼女の存在が欠かせないと、もっぱらの評判ですからね」
すぐさま、太木加寿子から電話がかかってきた
「どういうことだい?
いったい何処の世界に、喫茶店のマスター風情が、
芸能プロダクションと専属契約を結んでるって?」
「御存知ないのですか? 嫌だな。
景時はこう見えて、凄腕のイリュージョニストなのですよ」
「その声は、あの店の開店記念の日に
筋肉バカの源何とかにくっついてた金髪のマネージャーだね?」
「素晴らしい記憶力でいらっしゃいますね。
さすがは御尊敬申し上げている太木加寿子先生」
「口の軽い男の言葉ほど信用のおけないものは無いんだよ。
で? イリュージョニスト? 何だい、そいつは!?」
「平たく言えば『マジシャン』です」
「あのエセ陰陽師は、占いだけじゃなくて手品もするのかい」
「景時のイリュージョンは凄いですよ。一瞬で、着ている服を変えられるんです」
「手品師なら誰だってやるよ」
「一瞬で、姿を消すこともできるんです」
「あんた、そいつ以外の手品を見たことあるのかい!」
「それから」
「まだ何かあるのかい?」
「ええ、普通の手品は鳩と花とかを出すじゃないですか。
景時のはちょっと違いますよ」
「あんたの頭の方がちょっと違うんじゃないのかい!」
「景時は、サンショウウオを出すんです」
「………?? 何を出すって?」
「サンショウウオ。正確にはオオサンショウウオですね」
「……は! くだらない!」
「オオサンショウウオですよ」
「鳩とどこが違うっていうんだい!?」
「特別天然記念物ですよ。絶滅危惧II類ですよ」
「ああ、分かった分かった。類は友を呼びまくってるね。
エセ陰陽師の周りはバカばっかだね。
あんた、あの男のたかだかそんな手品に、プロダクション契約、結んだのかい?」
「そう仰るあなただって、随分と景時に御執心ではありませんか?」
「! そ……
ふん! くだらない。アイツと専属契約、結ばなくて良かったよ」
「そうでしょうか?」
「それが分からないようじゃ、あんたのプロダクションも長くないね」
「そこまで言われては……それでは、とっておきをお教えしましょう」
「とっておき??」
「ええ、『とっておき』です。内緒ですよ。他言無用ですからね」
「何なんだい! とっととお言い!!」
「景時は、逢いたいとお望みの人と会わせることができるのですよ」
「言ったね!」
09/02/08 UP
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