弁慶さんルート・2月 − 如月 壱
「それではリズ先生、夜もだいぶ更けてまいりましたので」
「うむ」
「ほら、景時。帰りますよ、大丈夫ですか?」
「ぎょ、御意〜〜っ」
「やれやれ、今日は一段と御機嫌ですね」
「あはは〜〜」
「困りましたね。景時、1人で帰れますか?」
「大丈〜夫大丈〜〜夫だよ〜〜」
と立ち上がり駆けて、派手に尻餅をつく景時であった。
「では景時、僕の肩につかまって下さい。君の家まで送って」
その差し出した弁慶の手を優しく制して、リズヴァーンが景時を抱き上げながら言った。
「私が行こう」
「え? いえいえ、リズ先生がわざわざそのような」
「そ〜〜そ〜〜、大丈〜〜夫ですよ〜」
「しかし、弁慶は藤沢。しかもこのような時刻。終電にはもう間がない」
「ああ、そうですね…。ですが、しかし」
「問題ない。酔い覚ましも兼ねて景時のアパートまで歩くのも一興」
「そうですか…」
「だ、大丈ぉ〜夫、大丈夫ですって〜〜。1人で帰れますから〜〜って、ね〜」
「そうかもしれぬが……、私が共に行った方が、景時も朔に怒られることがあるまい」
その瞬間、ピクッと反応した景時が居ずまいを正して、頭を下げて言った。
「そ、それは助かります〜〜〜。先生ぇ〜、是非是非是ぇ〜非、御一緒してくださ〜〜い!」
フッと柔らかく笑いながら、リズヴァーンは弁慶に向かって
「と、景時も言っている」
そう言われてしまえば、弁慶にしたところで特に異を唱える事もない。
それどころか、藤沢行きの最終江ノ電まであと10分ほどしか無かったのだから、正直なところは助かる。
そんなリズヴァーンの心遣いに甘えて良いものだろうかと、しばし躊躇しているのだった。
「あまり遠慮されると……、次の酒に誘うのが申し訳なくなる」
「リ、リズ先生……」
「さ、行こう」
「…ありがとうございます。では、その辺りまで御一緒させてください」
「うむ。さ、景時、…歩けるか」
「御意〜 うわ!」
歩き出そうとして、再びよろけた景時が
ガツン!
派手な音を立てて、壁と激突した。
「アタタタ……」
「景時」
「大丈夫です?」
「あはは〜〜〜、だ、大丈夫大丈夫〜〜ゴメンね〜〜」
「いえ、僕が心配したのは、先生のお宅の壁の方ですよ」
「え〜〜、弁慶ぇ、ひどいじゃないか〜〜」
「新装開店の書道教室ですからね。酔っぱらった大人が壁を壊したのでは、申し訳無さ過ぎますよ」
「ぎょ、御意〜……トホホ」
その時、弁慶は景時の足下に、ふと目を留めた。
「おや? これは……! 景時、動かないで下さいね」
「え? え〜?? 何? 何??」
「問題ない。その棚から落ちたのであろう」
とゆっくりリズヴァーンが拾い上げる。
「それは、逆鱗…ですね」
「うむ」
「まだお持ちだったのですか」
「……五行の流れに返し損ねて、今日まで来てしまった」
「そうだったのですか……」
リズヴァーンが、そっと元あった棚に、その逆鱗を戻す。
その時のリズヴァーンの表情を見て、弁慶は一瞬、
(驚きました、この人でもこんな柔和な表情をするのですね)
思い違いかもしれない、自分の錯覚かもしてない。
しかし、常に厳しい表情を崩さず、常に己と八葉の油断を戒め、すべてを神子のためにだけ捧げてきたこの人の
こんな柔和な表情は弁慶にとっても、目頭が熱くなるほど、心和む思いがしたのだった。
(僕としたことが…)
目頭の熱さが涙にならないように、グッと堪えて
(景時ほどではないですが、僕も酔っているのでしょうね)
そう酒のせいだと思い込もうとして、棚の隣の時計を見て、
「ああ、こんな時間になってしまった。さ、景時、帰りましょう」
と殊更のように言うのだった。
「御意〜〜」
「折角、先生と夜歩き出来るのですからね、星が出ているといいですね」
江ノ島の駅を過ぎ、ぼんやりと外を眺めていた弁慶の脳裏に、先程リズヴァーンの家で垣間見た逆鱗が浮かぶ。
「逆鱗……、まだ持っていらしたのですね…」
遠く離れていく江ノ島展望灯台の灯りが、今日は妙に気になってしかたがなかった。
喉に刺さった魚の小骨のように、時間が経過するにつれて、弁慶はひどく逆鱗が気になった。
降るような星空の下をリズヴァーンと歩いた日から10日程過ぎ、2月も折り返しをむかえようとする頃
藤沢総合市民図書館の閲覧室の片隅で、手にした書物をパタリと閉じて、弁慶は、暫し考え込むのだった。
藤原慶二という貸し出しカードと、今日これまでの数時間で読み終えた数冊の書籍を机の上に置いたまま。
望美さんから頂いた『家庭の医学』の内容も、時間はかかりましたが、
こうして図書館に日参することで、ようやく、ほぼ理解することができました。
この知識を得た今の僕なら、異世界で病に苦しむ人を、より多く救えるはずです。
少なくとも、伝染病や季節性の病気に対する予防は教えられる。
身籠もった女性に出産までの必要な知識を伝え、より安全な出産を迎えさせることもできる。
生まれて間もない赤子に対する保健衛生も、
年老いた人に必要な栄養の摂取についても、
チョットした怪我や火傷が化膿するのを防ぐことも。
あちらの世界のどんな医学書よりも正しい効能の薬を調合することもある程度は可能でしょう。
化学薬品は無理でも、漢方の知識を手軽に人々に広めることもできる。
病害虫の駆除や、雑菌の消毒方法も。
それどころか、口に入れる水は煮沸したものを使うことと、こまめに手を洗うといった、
こちらの世界では当たり前の保健・衛生の知識を伝えるだけでもいいのです。
それだけで、衛生状態は格段に進歩するでしょうし、伝染性の病気は激減するはずです。
ああ、これはまた僕の悪い癖なのでしょうか、知ってしまったことは試さずには気が済まないという……
いや、これはそんな好奇心や向学心、ましてや功名心ではない……はずです…。
この知識があの世界にあれば、救われる人の数は百の桁ではすまないはずではないですか……
フ、フフフ、何を偉そうに思っているのでしょうね、僕は。
薬師如来でも気取るのでしょうか、弁慶という男は
あの時もそんな事を思って、これしかもう他に方法が無いなどと勝手に思いこんで
応龍を滅してしまったじゃないですか。
その結果がどうなったか……
京の街をあんなにも荒廃させてしまった張本人じゃないですか。
応龍の時の二の舞にならないと言い切れるんでしょうか……
でも、あの時のような大それたことを成そうとしているわけでは……
けれど……僕のやることはいつも、結果として多くの人を不幸にしてしまう
それとも……
せめてもの贖罪のつもりなのでしょうか
僕の命を贄に、応龍を復活させようとしていたはずなのに
僕は、おめおめと生き残ってしまった……。
ハハハ……、僕はダメですね
望美さんの、白龍の神子の覚悟の……、
いったい彼女の何を見てきたというのでしょうね、僕は…
彼女の、あのいっそ清々しいまでの一命を賭した覚悟に、
僕達八葉は突き動かされてここまで来たんじゃなかったですか
弁慶
あなたには、彼女のような覚悟が、本物の覚悟があると言い切れるのですか!?
「リズ先生、今日は折り入ってお願いがあって参りました」
「分かっている」
「え?」
「……逆鱗……だな」
「ど、どうしてそれを!」
「以前、逆鱗を弁慶が見た時から、いつかはこうなるだろうと思っていた」
「ならば、どうか……お願いできませんか」
「……」
「リズ先生
僕は、僕がこの望美さんの世界で得た知識を、どうしても、
向こうの世界の人々に伝えなくてはならないのです。
この知識で救える命を、むざむざ見殺しには、僕にはできないのです。
お願いします、先生」
「……分かった」
あまりの呆気なさに、かえって躊躇する弁慶であった。
「え? よろしいのですか。ありがとうg」
「ただし、…条件が1つ、ある」
「条件……ですか、いったいどのような?」
「必ず、こちらへ無事、帰ってくると約束しなさい」
「それは…」
「どこの世界であろうと、八葉が欠けることは神子の力の喪失。
八葉として、無事に戻って来ることは義務だと考えなさい」
「そう…ですね」
「向こうの世界に於いて弁慶自身、誰からも傷付けられず、誰も傷付けず、息災で在り続ける
そのことをも意味している」
「そ……」
「夢にも、自分1人が矢面に立てば、などと考えてはならぬ」
「……矢面に……ですか…」
「約束、……できるか?」
「や、やだな、ハハハ。買いかぶりすぎではありませんか?
ぼ、僕は、…そのような大それた人間ではありません」
「……」
「だってそうでしょう、僕はそんなお人好しではありまs」
「『約束できる』か『できない』か。他の言葉は……無用」
「ならば……約束……できます」
「言葉だけでなく…」
「……」
「で、なければ、私は永久に神子に顔をあわせられなくなる」
「望美さんに、ですか」
「うむ。神子の性格は分かっているだろう」
「え、ええ…」
「神子もまだ、逆鱗を所持している」
「あ! ……」
「神子を、またあちらの世界に行かせることは、私の本意ではない」
「そう…ですね。……分かりました」
「我らは彼女の八葉。そして彼女は我らの神子。それは未来永劫変わることはない」
「その御言葉、きっと胸に刻み、必ずこちらに戻ってまいりましょう」
「分かった。……その言葉、信じよう」
「ええ、望美さんにまた、あちらの世界で叱られたくはないですからね」
「うむ」
柔和な笑顔で肯いたリズヴァーンから手渡された逆鱗は、思いの外、軽かった。
「必ず、お返しいたします」
「待っている」
「では」
そう言って、弁慶は逆鱗を胸に押しあてて、目を瞑り、祈った。
(さあ、白龍。お願いしますね)
一瞬にして弁慶は光に包まれ、消えた。
「弁慶……、無事であれ…」
祈るように、リズヴァーンは呟いた。
覚醒
ふと空気が変わったことに気付き、眼を開けると、そこは神泉苑。
空気が変わったのも当然、一面の銀世界で、吐く息も白い。
(え? これは……。確か和議は神無月だったはず、ですよね。
異常気象……のはずはないですね。
いくら和議直後に天気が激変したとしても、この積もった雪の説明はつきませんからね。
望美さんや有川兄弟の時空跳躍の話から、異世界に跳んだ直後の時に戻るモノと、
つまりは和議直後の神泉苑に戻るものとばかり思っていましたが……。
ああ、そうか、僕としたことが。
望美さんの二度目の時空跳躍は、燃えさかる櫛笥小路屋敷から、時を遡った夏の熊野でしたね。
と、すると、ここはいつの神泉苑なのでしょうか)
その時、後ろから声がした。
「弁慶様??」
振り向くと、そこには以前、時々五条の橋の施薬院に訪れる初老の男が立っていた。
「ああ、あなたh」
そう言い終わらないうちに、男は弁慶の足下にひれ伏して、涙を流して弁慶を拝んでいる。
「弁慶様だ、弁慶様。よくぞ御無事でお帰りに」
「どういうことでしょうか? よろしければ、教えていただけませんか?」
「そ、そんな勿体ない御言葉を」
男を立たせ、雪の中の立ち話も辛いのでと、五条橋のたもとの施薬院に共に向かうことにした。
その道々、歩きながらの男の話と和議以降の京の様子を尋ねる。
「如月ですか。よかった」
「よかった? どういうことですら?」
「いえ、僕はてっきりまだ、神無月だと思っていましたから。
それにしては底冷えして、雪まで降っているので驚きました」
その言葉に、男はかえって、目の前の弁慶様は伝説通り、龍神の神子の世界に行っていたのだと確信した。
そして、龍神の神子の世界がこことは違う時間が流れていることを知り、神妙な面持ちになる。
和議はすでに三ヶ月以上昔のことになっていた。
茶吉尼天を追って消えた龍神の神子と八葉は、半ば伝説になりつつあり
源平の合戦を止め、
更には、この国を異国の禍神や怨霊の蹂躙から救った英雄であった。
自分は今、その神とも英雄とも云われる御方と方を並べて歩いている。
そのことだけで、身震いするほどの思いであった。
「難しいことは良くは分からねぇですが」
そう言って男は、京を境に東西に別れた現在の源平の状況を知る限り、懸命に伝えた。
聞き終わると、弁慶は溜息を1つして
「そうですか……。経正殿と御館の苦労が忍ばれますね」
並んで歩く初老の男は『つねまさどの』と『みたち』が誰なのかは、分からなかった。
分からなかったが、この神とも思しき弁慶様が『どの』と付けてお呼びする御方なのだから、貴い方に違いない
そう思うだけであった。
「それと、睦月の末頃でしたか…、半月程前ぇから、あちこちで熱病が流行ってまして」
「熱病?」
「元気だった者ンが、急に悪寒がするって言い出すと、そん時にゃぁもう熱が上がっていて
咳が出て、中にゃ頭が割れるほど痛いって言うのや、関節が痛くて動けないってのも居りまして」
「の、喉のここの辺りが腫れたりはしていませんか?」
「いや、べつにそんなこたぁ無かったな」
「鼻水とかはどうでしょう?」
「ああ、そいつぁ結構みんなズルズルしてる」
「詳しくは診察してみないと分かりませんね。臆測で判断するべきじゃない」
「風邪じゃ無ぇな。あんなふうにあっという間にみんなに伝染るって風邪は、今まで観たこと無ぇです」
「そんなに急に?」
男と話しながらも、自然と歩みが早くなる。
そんな弁慶を見かけた人々が口々に
「弁慶様じゃ」
「弁慶様がお戻りになられた」
「ああ、この流行病の為に、弁慶様が神子様の世界からお戻りになられた」
「これで、この訳の分からない流行病から救われる」
「早く、皆に知らせなければ!」
「おお! そうじゃそうじゃ」
弁慶が五条の橋に着く前に、噂を聞き付けた人々によって一足早く、五条の橋は人々で埋め尽くされていた。
「これは……、かえってまずいですね。
申し訳ないですが、お手伝い願える健康な方を、出来る限り多く集めて欲しいのですが」
「承知しました。なぁに、弁慶様の御命令とありゃぁ、あっと言う間に十や二十の数、集まるでしょう」
そう言って男は人混みの中に消えていった。
「さてと。どうしたものでしょうね」
それこそ百や二百では済まない数の人々が、弁慶の帰還を待ちわびていたのだった。
09/12/29 UP