弁慶さんルート・2月 − 如月 参
「あの……弁慶様」
「何でしょう」
施薬をしていた弁慶は、その恐縮したような緊張したような声に振り向きながら、ある程度の事態は予想していた。
「あの…、後少しで『ますく』の在庫が尽きてしまいますが、いかが致しましょう」
「『後少し』とは、正確にはどれくらいなのでしょう」
突然の高熱、咳、喉の痛、身体全体の倦怠感に加えて、頭痛。下痢などの消化器系の症状も多く観られ、
その伝染の速さも尋常ではなく、つまり何もかもが、明らかに普通の風邪とはその激烈さが際だって異なっていた。
更にこの病にかかると、持病(特に呼吸器系疾患)のある人々はそれが急激に重症化する場合が多く観られた。
幸いにも異世界を知っている弁慶には、京の街で今流行しているのはインフルエンザだろうと想像がついた。
しかも「季節性」ではない、「新型」と異世界では呼ばれるものだろう。
歴史上何度となく世界的大流行を起こしては、世界の人口を激減させた感染力の強い。
「困りましたね、抗ウイルス剤もワクチンも無い世界で、どう対処したものか……。
インフルエンザ脳症などの患者には、それこそ漢方でどう対処すればいいのか、見当もつきませんね。
ああ、『家庭の医学』一冊で分かった気になっていた僕は甘かったのでしょうね。
とりあえず、先ずは感染の拡大を防ぐ手だてを図らないと。
そのためにも是非ここは法住寺の協力が必要なのですがね」
悪い時には悪い事が重なるもので、源平の合戦に疲弊した人々を昨秋から飢饉が襲っていた。
農耕地を戦で荒らされ、その戦に男手を捕られ、夜盗や落ち武者やはぐれ怨霊に悩まされ、
とどめのように、夏から晩秋まで雨が降らず……
神泉苑における後白河院主催の雨乞いの儀で、望美が舞を舞った事情の大部分も、そこにあったのだが、
結果として、この十数年来無かった程の凶作による飢饉。
「まだ京の洛中は、これでも『まし』な方でっしゃろなぁ」
「それというのも両龍神の神子様のおかげどすやろなぁ」
何が功を奏するのかも分からなかった。
以前、白龍の神子が伝えたとされる『ますく』を
(本当は譲が伝え教えて、黒龍の神子が作ったのであって、望美は針を折っただけだったりするのだが)
律儀に『すたっふ』の女性陣が作り続けていてくれたのだった。
それも、源氏が戦で京を離れ、譲や弁慶が五条に来られなくなり、
以前、九郎が必要なモノを金銭的物資的に完全サポートしていた頃に較べると、格段に滞るようになった。
源氏以外の支援者も、源氏と平家の先を読み切れず、中立を装って様子を観ようとして、徐々に減ってしまった。
そんな苦しい状況下で、思うような量産はできなくなっていたが、である。
それが、源平和議における神泉苑の騒動以降、『ますく』本来の効能云々よりも、
この世を破滅と動乱から救った龍神の神子と八葉ゆかりのグッズとして、
ファッション的な要素が多分に強いブームとなった。
それこそ、『鞍馬の天狗先生口当て』とか『荒法師頭巾』とか『熊野水軍帷子』とかから、
『黒龍神子様御舞扇』や、『白龍神子様御白袴』(これはさすがに着る勇気がなかなか湧かないらしいが)まで
どこで見ていつ作ったのか分からない、およそ当人の身につけていたものとは似ても似つかない模造品や、
『伽羅蜜宝輪』と詐称する、蜂蜜をかけただけの餅が若返りの妙薬として流行ったり、
中には『八葉粥』と称する、単なる雑炊に蘇をほんの少しまぶしただけのもので暴利を貪る店までが、
神泉苑の事件以降一ヶ月ほどの間に洛中に乱立し、活況を呈していたのだった。
そんな『にわか神子ブーム』に沸く洛中にあって、五条の施薬所は特別だった。
なんといっても『ますく』の本家本元であり、神子と八葉直伝であり、
望美や朔、それに八葉の面々が手伝いに来ていた当時の様子を覚えている者も多くいて、
人々は争うように訪れ、当時の話を聞いて、
その後で『ますく』を、その効能なのか神気なのかファッションなのかは分からないが、求めるのだった。
「なんぼでっしゃろ」
「売っておりません故、金銭はいただきません」
「ただでええんでっか?」
「はい。ただあちらにお志をお願いできれば幸いです」
「お賽銭みたいなもんでっか」
「そのお志によって、当施薬所は営む費用を捻出しておりますので」
「そりゃ大変でんなぁ。
四条河原町辺りじゃ、この『ますく』1つに銭4枚は取られまんがな。
こちらはんなら、銭5枚でもありがたがって買い求めまっしゃろに。
そしたら、あんさん、ぎょうさん儲けられまっせ」
「いえ、当院は利潤を求めてはおりません。それも弁慶様の御意志ですから。
あ、その代わり、申し訳ありませんが『ますく』は、御自身の分1つだけでお願いいたします」
「ええ! せっかく河内から来たっちゅうに、それは殺生や」
「それも弁慶様の御意志ですから」
こうして『ますく』は細々とではあるが作り続けられ、二千近くが配られ、まだ数百は在庫があったのだった。
露店の模造品『ますく』や『口当て』も含めれば万に近い数が、洛中に出回っていたことになる。
白龍の神子の託宣として『手洗い』と『うがい』も浸透し始めていたのも幸いした。
「八葉の方々は、朝起き抜けと夜寝る前に『歯磨き』と『うがい』ちゅうのんを欠かさずしていたそうじゃ」
「源氏の総大将が面倒がって、『歯磨き』をせずに寝ようとすると、
その度に白龍の神子様と天狗の先生に叱られていたっちゅう話じゃ」
「源氏の総大将も小さくなって謝っとったっちゅう話じゃぞ」
「そんなに大事なことなのかのぉ」
「その『歯磨き』と『うがい』に『手洗い』は、神子様がその御神気を保っておられる秘訣じゃそうな」
「神子様でもそんなに大事にされるちゅう事は」
「儂らは、もっと頻繁にせにゃならんっちゅうこっちゃろな」
『神子の神気が込められたものだから』と、少し考えれば如何にも嘘くさい言い訳を信じて、
五条界隈の人々は律儀に、浄水器の水を飲み水と煮炊きに使用していた。
そんな折、この流行病である。
結果として「京の市中は、これでも『まし』な方」という状況を奇跡的に生み出していた。
それでも日に数百の人々が発病し、その中の数人は洛中のどこかの辻で息絶えるのだった。
しかも日増しに病の力が増しているように感じられ、人々は不安におののいているのだった。
「ひい、ふう、みい、よ……十一しかありません」
「二百五十幾つかあったはずなのに……」
「僅か1日半で……」
「もうそれ程の人を看たのですか……。実感はありませんね」
「こっちが心配になるくらい、弁慶様は食事もお休みもほとんどお取りにならずに」
「いいえ、以前の苦い経験がありますから。
僕が倒れると、かえって皆さんに迷惑がかかることになってしまうのは、以前で学習しました。
だから、キチンと食べて、昨晩はキチンと寝かせてもいただいたので、御安心ください。
それより困りましたね……。外でお待ちの方は、あとどれくらい居られますか?」
「あの……、それが……」
「どうしました?」
「減るどころか、朝方より増えておりまして」
「え?」
「昨日でも、かなり遅くまで全員を看るのにかかりましたが、今日はこの調子じゃぁ夜になっても……」
「下手すりゃぁ、野宿の者が出るぞ」
さすがの弁慶も、それほど大量の病人が五条に詰め掛けた経験が無かった。
「弁慶様が五条にお帰りなさったと聞き付けて、宇治や長岡京、遠くは近江や摂津の方からも続々と」
「そんな遠くから? わざわざ峠を越えてまで、ですか?」
「はい…」
「陽が落ちたら終わりにしねぇと」
「でも、そこまで待たせて、今日はおしめぇだから帰ぇれってなぁ、さすがに俺ぁ言えねぇよ」
「尋常な数ではないですね……、
かといってそんな遠くから来た人を無碍にお帰り願うわけにもいかないし……困ったな」
その時、外が妙にざわつき始めた。
「順番だろう」とか「割り込むな」とかいう怒声に混じって、「黙れ黙れ!」と恫喝する声も聞こえる。
「? 何でしょうね」
そう言って外の様子を窺おうと弁慶が立ち上がりかけた、その時
「御免!」
と物々しい一団が、それほど広くもない施薬所に入ってきた。
「勝手に入ってきては困りm」
その苦情を申し出た『すたっふ』を突き飛ばして
「ここの主宰、武蔵坊弁慶は居るか!」
と、大音声で高圧的に尋ねる。
「な、何をしなさる!」
「乱暴な!」
「べ、弁慶様……」
『すたっふ』は一様に弁慶を見やる。
その視線の先にいる、黒衣をまとった男の所在を、入ってきた一団は理解した。
しかし、弁慶は柔和な笑顔で穏やかに言った。
「どうされたのです? 何事ですか、
此処は施薬所ですよ。そんなに元気な声が出せるなら、薬は不要だと思いますが」
「何! 坊主崩れが偉そうに!」
「べ、弁慶様に何ぃ言うだか!」
「突然入って来たかと思えば、偉そうに!」
『すたっふ』が今度は気色ばんで立ち上がる。
「何! 貴様ら!」
と闖入者の中の1人は、腰の刀に手が掛かる。
しかしかえって、その仕草に弁慶は
「フフフ…」
「な! 何を笑う!」
「ああ、これは失礼。お気に障ったなら謝ります。しかし、よした方がいいでしょう、慣れないことは」
「何!」
「1つお聞きしますが、あなた、刀を抜いたこと、おありですか?」
「ぐ、愚弄するか!」
グッと相手の目を見て弁慶は、特に大きな声ではないが腹の底から一言
「止めなさい」
そう言っただけで、刀を掴んだ男は動くことが出来なくなった。
圧倒的な威圧感
これこそ幾多の修羅場をかいくぐってきた者のみが出来得ることだったのだろう。
弁慶は続ける。
「刀を抜くということは、命の遣り取りをするということ。
その覚悟の無い者が、気安く刀を抜かないことです。それに」
フッと弁慶は腹に込めた力を抜いて、ゆっくりと一団を見渡してから言った。
「今あなたが斬ろうとした人も、あなたと同じ人間です。
斬れば紅い血潮が飛びちるのです。
いいのですか? 人の命を救おうという人が、人の命を理不尽に奪おうとするなど」
「同じだと!」
入り口の外で、拍手の音がする。
中にいる者全員がその音のする方を注視する。
室内に闖入した一団が跪き、その拍手をした者を迎える。
「失礼いたしました、武蔵坊殿。
皆、下がりなさい」
「し、しかし」
「下がりなさい。いいですね」
「……… は」
「ああ、そうだ。表で薬湯を作るお手伝いをしていなさい」
「え、……そ、そのような」
「お手伝いなさい」
あくまでも穏やかな話方と物腰だが、一団は恐縮してそのまま無言で退出していった。
「どうも申し訳ないことで。悪い者ではないのです、しかし、気位が妙に高くて、どうも」
「お若いですからね」
「私から見れば、あなただって充分お若いですが」
「いえいえ、僕などもうロートルのポンコツで」
「『ろぉとるのぽんこつ』? はて、どういった意味でしょうかね」
「あ、ああ失礼、僕としたことが。ま、『もうヨボヨボです』とでも御理解ください。それよりも」
と弁慶は居ずまいを正して頭を下げた。
「こちらこそ助かります」
「と、申されると?」
「典薬寮の方々に、薬湯を作っていただければ、これほど心強いことはありませんからね」
「はて? どこでお気づきになられた」
「入っていらっしゃった時に微かですが、あの方々からは薬の匂いがしました」
「薬の…」
「たぶん麻黄と桂皮でしょうか」
「八葉のお方というのは、鼻もよろしいのですな」
「それに、あの刀を手にした方の指のタコ、あれは漢方薬を調合するときの『すりこぎだこ』でしょう」
「この僅かな間に……。目もよろしいのですな。恐れ入りました」
「いえ、どちらかといえば、僕は目は悪い方ですよ。眼鏡が無いと困るって程でもないと思いたいですが」
「そうなのですか」
「ああ、それとその調合は間違っていないと思いますよ」
「え?」
「麻黄に桂皮ですからね。あとは杏仁と甘草ですか。『麻黄湯』。
この流行病には、確かに『麻黄湯』が一番効果的だと、僕も思います」
「そこまで……。噂に違わぬ、いや、噂以上のお方だ」
「どんな噂でしょうね」
「それは……」
「今日はどのような御用件なのでしょうか? 典薬寮長官の和気定成様ともあろう方が」
その弁慶の言葉に、今度は施薬所の『すたっふ』達が慌てて飛び退く番だった。
「て、典薬頭様!」
「法皇様や天子様を診察される…、こ、この方が」
皆慌てて一斉に土下座をする。
宮中典薬寮、それは国内最高水準の医療機関であり、
諸貴族はもとより天皇、皇族をも診療する官位を授かった貴族集団であり、
その長官が典薬頭である。
天皇や上皇をも診察するため、昇殿の許しでもある五位の位を賜った上級貴族でもある。
「ああ、そのような。皆さん、頭をあげてください」
そう言われても『すたっふ』一同は、どうしていいのか分からず、とりあえず頭を上げたものの、
ぎこちない笑顔で固まったままだった。
「では皆さんは、施薬の仕事を再開してください。
僕は和気殿とちょっと外の様子を見てきますので」
そういって弁慶は立ち上がり、典薬頭・和気定成を促して施薬小屋の外に出た。
「却って仕事のお邪魔をしてしまったようで、申し訳ない」
「いえ、いいんですよ。それより今日はどういった御用件でしょう」
「その前に1つ、よろしいか?」
「はい、何でしょう?」
「以前、何処かでお会いしたことがありましたかな?」
「2年ほど前、法住寺ですれ違ったことが一度。ただ、こうして言葉を交わすのは初めてです」
「なるほど。院が是非ともお会いするようにと仰ったのも肯ける」
「やはり、院の……。そうでしたか」
「ところで」
と定成は袖の袂から包みを取り出した。
「それは?」
そういう弁慶の疑問に答えるように定成は、包みを開く。
中には、この施薬所で配布していただろう『ますく』が1つ入っていた。
「『ますく』ですね」
「ええ、以前あなたが院に献上した『ますく』です」
「後白河院の……。ああ、どこかで見たことがある『ますく』だと思いました」
「この『ますく』なるものを調べさせてもらった。
正直、これを口に付けて紐を縛ると、若干息苦しいだけで何の効能があるのか、さっぱり分かりかねた。
単なる、龍神とその神子なる人物の、宗教儀礼的な装束に過ぎないと考えていたのです。
しかし、今流行っているこの訳の解らぬ病に対して、
この施薬所で配布しておる『ますく』と、
それに限らず、街の辻で売っておる露店のまがい物であっても
それをしている者の発症率は、していない者の十分の一にも満たない」
「そうでしょうね」
「何か特殊な薬剤が染みこませてあるのかと当初は考えた」
「それは」
と言いかけた弁慶を制して
「しかし、露店のまがい物にまで同じような薬剤が染みこませてあるとは考え難い。
念のためどちらも調べたがしかし、やはりただの布だった」
「そうでしょうね」
「院の仰るには、『ますく』は龍神か、または龍神の神子の神気による加護が得られるという。
だから、この病での罹患率が低いのだと」
「それも、露店のまがい物については説明が付きませんね」
「そうなのです」
「まあ、施薬所のものも、布は寄付されたもので、作ったのは今あそこにいた女性達ですから」
「では何故」
「我々の身のまわりには、我々の知らない事、気づかない事がまだまだ山のようにあるのです」
「それが御仏や神や怨霊の存在だと?」
「いえ、違います」
「え?」
「『龍神の神子』という名は、この『ますく』や、『手洗い』といったの習慣を
多くの人々に根付かせるためには便利ですが、それだけのものに過ぎません」
「なんと! 八葉であるあなたが主とも言うべき神子の御名を、方便として使っておられるのか」
「方便……、ええ、そうかもしれませんね。でも、そうだとしても彼女は怒らないでしょうね。
それで多くの人の健康と命が守れるのなら、名前などどうでもいいと、そう言ってくれると思いますよ」
「比叡で研鑽された弁慶殿の口からそのような」
「ええ……そうですね……。どうやら誤解があるようですから、その点を先ず訂正させていただきましょうか」
「誤解?」
「ええ。僕は『ますく』も『浄水器』もどういう為のものかなど、最近まで知りもしなかった」
「なんと!」
「以前の僕は、僅かな支援のお金を漢方の薬に換え、
甘草や葛根湯や芍薬散といった生薬を、それこそその辺りに自生している薬草に配合して、
というより嵩増しして、細々と困っている人々にお配りしていたに過ぎません」
「なるほど……。正直な方ですな、弁慶殿は」
「正直? そう言われるのは怖いですね。僕は正直でもないし、そう言われる資格もない」
「謙虚ですな。どれ、こちらも正直に申し上げましょう。
我々は困っているのです。いや、うろたえていると言ってもいい」
「この流行病に、ですか?」
「さよう。洛中は地方よりもマシ、その洛中より多少マシといった程度なのですよ、御所も法住寺も。
投薬も針も按摩も、陰陽寮の祈祷も、密教の真言も読経も、何も利かない。
それどころか、典薬寮も陰陽寮も比叡にも、病に罹患する者が増えている。
そんな中で唯一例外なのが」
「『ますく』をしている者達……ですか」
「左様。その『ますく』をするだけで感染率が圧倒的に低い」
「『ますく』の仕方にもよりますね。きちんと着ければもっと罹患率は下がると思いますよ。
それとたぶん、正確には『うがい』と『手洗い』との併用も利いているのだと思いますが」
「何故です。何故そのようなことが、今のあなたにはお分かりになるのでしょう。
お願いです。あなたの医療に関する知識を御教授いただきたい」
「僕など、どこにでもいる施薬坊主、……いえ、坊主にすら為り損なった破戒僧ですよ」
「御謙遜を。では、こう申し上げた方がよろしいかな」
典薬頭・和気定成は、真っ直ぐに弁慶を見つめて、こう言った。
「龍神の神子の世界の医療に関する知識を、と」
10/02/11 UP