大事だった 敦盛 熊野日記
見渡す限りの海原
雲がふわふわと流れていく
昼過ぎであろうことは、陽の位置でわかる
外洋にもかかわらず、今日は波が穏やかだ
陸からだいぶ離れたのか、水鳥の姿も見えない
さっきから舟の舳先で、銛を構えてヒノエは海面を見つめている
「ヒノエ〜、そろそろ飯にしないか〜」
「腹減ったよ〜」
「しぃー! もう少しだ」
「もう少し、もう少しって、もう二時以上もこうしてるんだぜ!」
「ちょっとだけ飯喰って、それからまた、気ぃ入れ直す方が、いいんじゃね〜の?」
「ねぇ! ヒノエ〜!」
「あ! 二番舟の連中、のんびり飯喰ってるぅ〜」
「ねぇ!! ヒ! ノ! エ!」
「敦盛も、何とか言ってやれよ〜」
十二人いる漕ぎ手の少年達は口々に、飯を食わせろとごね始める
「ヒノエ、皆がこう言っているのだから、少し休みにしてはどうだろうか?」
「……聞こえないか?」
「?」
「お前ら、聞こえないか?」
「?」
「!」
「あ」
鳥の声?
いや、この物音は海
の下から聞こえてくる
静かにヒノエが告げる
「野郎共、もう少しだ」
それまでの、だらけた雰囲気が一変する
ピューゥ
口笛でヒノエが、もう一艘の勢子船に合図を送る
「これはいったい、ヒノ」
「来た来た来た!! 野郎共、しっかり櫨を握りやがれ! 来る!!!」
ヒノエが言い終わるより早く
ヒノエ達の乗った勢子舟のすぐ前
手を伸ばせば届く程の距離の海面が
すでにヒノエの数倍の背丈にまで隆起していく
「寄せ波に負けるな! 漕げ!!」
「せい!」
「や!」
「せい!」
「や!」
飯を食わせろとごねていた事などすっかり忘れて
かけ声を合わせ綺麗に櫨を漕いでいる
「たぁ!」
鋭く握った銛を隆起した海面に突き刺す
銛は丈夫な綱で結ばれ、その綱のもう一端は空の樽に括り付けられている
「一の樽、投げ込め!」
最前列の漕ぎ手がすかさず樽を海に投棄する
「銛! 次だ!」
ヒノエの声に、敦盛が二本目の銛を慌てて渡す
「来いよ来いよ! こっちだぜ!!」
隆起する海に向かい、ヒノエが叫ぶ
寄せ波に正対していた舟は舳先が高く持ち上げられた格好となり
信じられない角度に傾き、乗っている者を今にも放り出しそうになっている
「せい!」
「や!」
「せい!」
「や!」
「喰らえ!!」
二本目の銛を全身を使ってヒノエは打ち込む
「当たり!! 二の樽、投げ込め!」
隆起した海面が爆発するように砕ける
黒い巨大な塊が姿を現す
「銛!! 次だ! 敦!」
「す、すまない!」
銛を渡しながらも、敦盛の目は黒い巨大な塊から離れない
生まれて初めて見る間近に泳ぐ
「これが鯨……」
二日前の日暮れ時
数人の仲間を連れて
突然やって来たヒノエは敦盛に向かい
「敦盛、お前、鯨を見たこと無いんだって?」
悪戯っぽく目を輝かせて語りかける
敦盛はどこか心の奥で
(危険危険危険!)
と警戒警報が鳴り響いている
(ヒノエがこの目つきをしている時はとんでもない事を企んでいる)
という経験則は、熊野に来て三月と経たないうちに敦盛の身に染みついた
ましてや熊野の二度目の夏を間もなく迎えようとしている敦盛は
しかし、ヒノエの申し出が間違いなく善意から出ている事と
ヒノエの善意を断れない自分についても
かなしいことに熟知していた
どこか用心した声色で敦盛は答える
「ああ、見たことも無い」
「じゃあ、じゃあ、泳いでる姿なんて」
「当然、無い」
「へへへ、喜べよ。俺様が見せてやるぜ」
「いや、別にとりたてて見たいと思ったことは無いのだが」
「遠慮するなって。
それに、熊野の男は鯨を捕って一人前、って昔から言われてるんだ」
「? そ、それが何か?」
「俺達がお前を『熊野の男』にしてやるよ」
「え? あ、あの……それは鯨捕りに一緒に来い、と誘っているのだろうか?」
「正解! じゃ、濡れてもいい格好で、あさって、文里浜に来いよ。じゃぁ、な」
「い、いや。私はまだ行くとは」
「待ってるぞ!」
敦盛の方を振り返りもせず、ヒノエは手を振り、去っていく
溜息を一つつき
濡れてもいい服とはどのようなものか
見当もつかず、敦盛は途方に暮れた
敦盛と別れてすぐに仲間達がヒノエに尋ねた
「でも、ほんとに、大人は誰も行かないのか?」
「鯨なんて子供だけで捕れるのかな?」
「どこに鯨が現れるかだって分かるまでに、すっげぇ年季がいるって父ちゃん言ってた」
「無駄足にならないか?」
「それなら、その方が危なくなくていいって」
「ごちゃごちゃとめめしいこと言ってるんじゃ無えよ!
怖いなら、来なくて結構!
俺は行くぜ」
顔を見合わせる子供達
「そ、そう言えば、『熊野の男は鯨を捕って一人前』って、格好いいな?」
「あ、俺も思った」
「でもよ、聞いたこと無かったぜ」
「さすがヒノエ、物知りだな」
「ああ、あれ、嘘に決まってるじゃん」
「ええ!」あっけにとられる一同
笑い崩れる一同
「だけど、俺たちの代からは、この熊野はそうなるんだ」
真顔で付け加えるヒノエであった
背に三本の銛を喰らったセミクジラは、
その銛を振り解こうと
海面を大きくジャンプする
その瞬間を狙いすまし
ヒノエの一番舟と、対面の二番船が同時に鯨の腹部に銛を打ち込む
着水の衝撃と圧力で銛は深々と刺さる
ヒノエが考え抜いた作戦であった
腹部に食い込んだ銛の痛みに潮を噴く
その潮を噴き上げる噴気孔近くに四本目の銛をヒノエは打ち込む
二番舟でも銛が打ち込まれた
「次、潜るぞ!! 漕げ!! 引き波に負けるな!!」
その通り、鯨は海の底に潜ろうとする
しかし、打ち込まれた銛に付けられた綱の先の空樽は
鯨の潜水を妨害し、
潜った鯨の正確な位置を舟に教える
浮かぶと銛を打たれ
海底に沈んで逃げようにも、空樽に阻まれて沈むに沈めない
二艘の勢子船から十八本の銛が放たれた
十八個の空樽を引きずり
逃げまどう鯨は
徐々に弱っていく
「もう少しだ」
西に傾きはじめた陽に照らされてヒノエが言う
鯨の左右から二艘が近寄る
と、その時だった
ヒラリ
と軽やかに鯨の背に飛び乗る敦盛
「!! な、何をするんだ!」
驚くヒノエの声に
手を挙げて答える敦盛
その手には
銛が一本握られている
「敦盛、危ない! 戻ってこい! 止めろ!!」
その声を聞き入れず
敦盛は銛を高く振りかぶり
呟く
「南無、苦しませてすまない。
無益な殺生にはせぬゆえ
往生を」
言い終わると
その銛を握り手の部分まで届くほど
深々と突き刺した
正確に心臓を貫き
鯨は絶命した
銛を杖替わりに持ち
身体を支える敦盛に
両艘から歓声が起こる
「ちっきしょう! 最後のおいしいところを持っていかれた」
しかし、うれしそうなヒノエであった。
少しあって
「敦盛!! どうした、早く戻って来い!」
「ヒ、ヒノエ……」
「お前……」
「どうやって戻ったものだろうか?」
笑い転げる二艘の舟
ただ一人、ヒノエだけが真顔で
「飛び移れ!」
「む、無理!!」
「ふ、まずいな……」
「ヒノエ〜」
「ヘタレなお前も悪くないけど……さっきは飛び移ったじゃん!」
「先程は夢中だったのだ」
「今度も夢中になれ!!」
「無理なものは無理!!」
「じゃ、飛び込め!」
「ヒノエ! お前に言ってはなかったのだろうか」
「何を?」
「わ、私は泳げないのだ。というより、泳いだことがないのだ」
「何!!」
「教えてはくれないだろうか」
「今!? ここで?
しょうがないな、敦盛たっての頼みじゃあ、断れないな」
「すまない……。私のせいで迷惑をかけることになるとは」
「可愛いね、敦盛。
お前となら浜まで泳ぐことだって悪くないぜ。
いいか、俺を信じて飛び込め! いくぞぉ!
いち! に! さん!!」
夜になって帰ってこない子供達を心配し
浜に集まった親たちは
遠くから二艘の勢子船の漕ぐ櫨の音と
子供達の歌声と笑い声を聞き
海に目を凝らした
次の朝、大人達にこってりと怒られた後、
文里の浜の波打ち際に
浜の大人も手伝って引き上げたセミクジラが横たわっていた
