玄武   1










花に嵐の喩えもあるとおりに、

満開の桜を吹き散らす、冷たい風が吹き抜ける。






夕刻からの花見の宴席を確保しようとブルーシートを敷き、

気の早い者は、寒さしのぎの言い訳も手伝って、早くも酒やビールを飲み交わしている。




家族連れは春休み最後の行楽として、

恋人同士は気分を盛り上げるデートコースとして、

新入社員を引き連れた先輩サラリーマンは社内の親睦として、

大学生達はとりあえず騒げて酒の飲める場所として、

この季節、桜の木の下を求める。




ここは、東京都北区王子にある飛鳥山公園。

落語の舞台にもなるここ飛鳥山は、徳川八代将軍吉宗公によって造成された、

江戸時代からの庶民にとっての花見の名所である。

王子の駅を下りて南にJRの歩道橋を渡ると、もう、そこは飛鳥山である。




花見客を当て込んだ屋台の主人達は、冷たい風と雲行きを危ぶんで、眉を曇らせる。




そんな桜並木が両側に並ぶ、桜花舞い散る遊歩道を、

トンボ玉の羽織紐も洒落た、正絹の泥染紬を着た男が、ゆっくりと歩いている。




男はゆっくりと、しかし桜を愛でるでもなく、歩いている。

花見でこの地を歩いているのではない、所用の帰りなのである。

都電を降りて自宅までの一番の近道としているだけのことであった。

男は、ここ王子駅近くで骨董品店を営んでいる。




「骨董品店を営んでいる」と言うと、

骨董品に埋もれて趣味に生きる老人を思い浮かべる向きも多いだろうが、

男はまだ二十代半ばである。

高校を卒業してからは、と言うより高校在学中から、

失踪した祖父の代わりに店を切り盛りしているのだ。




手には、使い慣れた藍染めの風呂敷包みと、これまた愛用の信玄袋を持ち、

艶やかな長い黒髪をなびかせて歩いている。

和装の美男子が満開の桜の下を歩く姿は一幅の絵のようで、

傍目には出来過ぎな組み合わせだった。



それゆえ、彼の周りだけは、王子飛鳥山の喧騒がかき消されたかのようで、

見とれる女性達の羨望と感嘆、男性達の賞賛と嫉妬、

それらが複雑に入り交じった視線と、

誰とはなしにつく「ホウ」という溜息の数々に取り囲まれている。



幼い頃から評判の美少年で、しかもその評判を裏切ること無く美青年へと進化した




男の名前は、如月翡翠。











美少年と呼ぶには、一瞬躊躇する年齢であろう。

かといって美男子と呼ぶのも、また一瞬躊躇う年齢に見える。

いやその前に、美しい女性なのか、綺麗な男性なのか、

そちらの方にも躊躇する容貌である。



気の早い女子高生達などは、彼を一目見るなり互いに見合っては頷き、

話しかけるでもなく後をついてくる。



どこか思い詰めたような、それでいて凛とした涼やかな瞳。

紫の艶やかな長髪に、

透き通るようなという表現がこれほどしっくりくる男性はいないだろう白い肌。

淡い緑のマフラーに、落ちついたオレンジ色のハーフコートの襟を立て、

ロングブーツの似合う長い脚。

少女マンガでも最近は描かないような、典型的な美形である。



彼は今、一面に咲き誇る桜に心を奪われている。

そんな心情が、いっそう彼の美しさを内面から際だたせているのだろう。



彼は今日、ルームメイトに黙って横浜から一人で電車に乗り、

上野にある芸術大学の奏楽堂に来た。

邦楽の定期演奏会があり、どうしてもそれが聴きたかったからなのだが……。

しかし夕刻からの演奏会だったにもかかわらず、

用心し過ぎて二時間以上も前に上野駅に着いてしまった。

まさか地図で見た横浜と上野の間を、五十分弱で移動出来るなどとは

思ってもいなかったのだ。



どこで時間を潰すというあても無かった彼が、

何気なく上野駅構内のポスターを眺めていて、ふと目がとまる。



   「王子?」



そこには北区王子飛鳥山公園の桜祭のポスターがあった。



    桜……



まずそこに目を引かれたのは確かだが、

次の瞬間、その公園の近くにある神社の縁起に釘付けとなった。



『王子権現―――紀州熊野権現の勧請と伝えられる。

        1322年、当地の領主豊島氏が社殿を再興。

        若一王子宮とも称される』



   「とすると、あの王子…なのか…」



どうにも『紀州熊野』の文字に込み上げる懐かしさを押さえられず、

出かけてきたのだった。

桜祭りの当日、しかも週末、その上春休み、ということもあって

大勢の花見の客が繰り出していた。

何気なく人波の流れに従って歩いてきたのだが、

思ってもみなかった満開の桜に感動してしまっている。



子供達が楽しそうに駆け回る遊戯公園を抜けると、

その向こうに何やら黒い鉄の塊があった。

敦盛が不思議そうに眺めていると、

D51と名の付いたその鉄の塊にも子供達が上ったり降りたりしている。

その向こう側の遊歩道には、両側に満開の桜の並木が続いていた。



どちらの方角に王子権現があるのかも、この人波では皆目見当もつかない。



しかし不思議なことに、彼が立ち止まっても、

その雑踏の、人の流れに押されることなどなかった。

人の波が彼の周りだけは避けて流れている。

というより、彼を遠巻きに取り巻いているようにも感じられる。



   「わ、私が穢れているから、皆が私を避けるのではないだろうか……」



そう思い、こんな大勢の中で孤独を一瞬噛みしめるのだった。



彼には分からなかったのだ。

傍目には、瞳を潤ませた美少年が満開の桜の下に佇んでいる。

そんな姿は、映画のワンシーンのようで出来過ぎな組み合わせであることが。



それゆえ、彼の周りだけは、王子飛鳥山の喧騒がかき消されたかのように、

見とれる少女達、OL達の感嘆、男性達の嫉妬と羨望、

それらが複雑に入り交じった視線と、

誰とはなしにつく「ホウ」という溜息の数々に取り囲まれていることも。



平安末期の平家の公達として生まれ、幼い頃から評判の美少年で、

しかも数奇な運命を経て、

今、こうして平成の世の桜咲き乱れる飛鳥山にいる。




少年の名前は、平敦盛。











飛鳥山公園のほぼ中央には噴水を配した広場がある。

当然のことながら、ブルーシートを敷いた花見客と、

その花見客を当て込んだ屋台の数々で埋め尽くされている。

少し離れたところにある野外ステージでは、花見に相応しいかどうかは不明だが、

威勢の良い和太鼓が鳴り響いている。



平敦盛が、多くのギャラリーを本人の意志とは無関係に、引き連れてやって来る。

その一団の登場だけで広場のブルーシートに座った面々は、

酒の酔いも手伝って、物見高く見詰めている。





反対側からも似たような一団を、

これまた本人の意志とは無関係に引き連れた、如月翡翠がやって来る。

二つの人垣が一つになった瞬間、

多くの女性の感動と興奮の錯綜した、声にならない悲鳴が発せられた。





二人の男がすれ違った。

それだけのことである。





それだけのことであるのに、この広場の異様な熱気は、和太鼓によるものではなかったはずだ。





すれ違ってから、きっちり二歩の後、如月翡翠は立ち止まり、振り向かずにこう言った。



   「君、玄武だね」



それがどういう意味なのかは、二人以外にこの広場には分かる者などいなかった。

しかし二人を取り巻く群衆は、水を打ったように静まり、事の成り行きを固唾を呑んで見守った。



平敦盛は更に一歩進んでから、驚いたように目を大きく見開き、

肩越しに、たった今「玄武だね」と言った男の様子を注意深く窺った。

そして、ゆっくり振り返り



   「あ、あなたは……?」



と、半ば警戒し、躊躇いがちに尋ねた。



その敦盛の警戒や躊躇を察したのであろう、如月は

彼を知っている者にとってはびっくりする程、

彼の生涯でも数えるくらいでしかないであろう、珍しい柔和な笑顔と声で言った。




   「分かるよ……。僕も玄武…だからね」




声にならない悲鳴が周りの女性達からいっせいに上がった。

そして群衆の多くが、



   「何で私、今、写メらなかったの〜〜!!!?」



と人生最大級の後悔を噛みしめたのだった。











08/08/21 UP

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